原人物語6

日本医科大学の学生だった井内氏が明石に帰省していた時、西八木海岸で偶然 直良信夫に出会い、交流が始まったそうです。

昭和7年の夏休み、井内氏は信夫と一緒に、象の化石を求めて瀬戸内海の女木島で洞窟を調べ、弥生式土器などを発見しました。

信夫の指導で人類学誌に発表したその結果が、井内氏の処女論文となりました。

信夫はこの前年、あの「明石原人の腰骨」を西八木海岸で発見しており、井内氏は信夫の家を訪れ、その腰骨を2度ほどじっくり観察する機会に恵まれたそうです。

腰骨は完全に化石化し、褐色を帯びて重量感があった と井内氏は、金造と西海氏に語りました。

戦争でいったん途切れた井内氏と信夫の交流は、戦後、再開され、井内氏は信夫の業績の高揚と研究の継続を模索しました。

昭和57年5月、井内氏は島根県出雲市で暮らす信夫を訪ねました。

脳梗塞で軽い言語障害になっていた信夫でしたが、明石で考古学の若手を育て「明石原人を探す会」を結成したいと語る井内氏の言葉を熱心に受け止めていたそうです。

護岸工事が完成して、もう昔のように崩壊するような崖がないので、漁師やダイバーに頼んで海中を探す。

会の名前は「明石原人を追うロマンチストの会」にする という井内氏の言葉に 私がもう10年若かったら…とつけながら「原人は必ず出ます」と言ったそうです。

島根から戻った井内氏は興奮した調子で 金造と西海氏に信夫との約束を伝え「情熱と執念を持って原人を追い続ける若者を育てたい。私は若い君らの運動を見守る顧問になる」と言って表に出るのを拒み、金造を会長に指名しました。

実のところ、金造と西海氏にはまだ考古学そのものへの希求はそれほどに育ってはいなかったのですが、井内氏は引き下がらず、半ば無理やり金造が会長の「明石原人を追うロマンチストの会」が出来上がりました。

しかし、そうはいっても実働2人の会では何もできず、当面日曜や祭日に井内氏のお伴をして、本を読み、底引き漁をする漁師の網にかかった化石を井内氏の「診療室授業」で鑑定する日々が続きました。

「ロマンでは飯は食えん!」という批判も浴びましたが、それでも金造たちは「原人が話題になれば強力なまちおこしにつながる」という手ごたえらしいものも感じ始めていたのです。