原人物語7

年号が昭和から平成に変わった年、金造はJR大久保駅北側の80店舗を取りまとめる大久保商盛会の青年部会長となります。

大久保商盛会は、近所にできた大型店舗のあおりを受けて会員減り続ける中で、創設20年を迎え 大売り出しなどの定期行事以外の買い物客の心にひびくイベントの仕掛けを考えていた時期でした。

その年の4月末に行われた「駅前まつり」では、ラーメンなどの食品を「20年前の価格セール」として売り出し、買い物客に喜んでもらったそうです。

翌平成2年の1月4日付の新聞には「原人祭りでまちおこし」の文字が大きな見出しに躍りました。

金造が新聞のインタビューに答えて 語った内容が報じられたのです。

翌日の青年部の新年会で金造は、「原人発見の大久保で その志を繋ぐのは我々の義務」と切り出しました。

前日の新聞で金造の考えを読んでいたメンバーは「おもろい!」とその話を受けて、企画、資金、組織などの計算もなく 全員が夢を語り続けたと言います。

やがて、商盛会役員も協議に加わり「原人の骨発見60年」のタイミングを 原人腰骨の「還暦」として 「明石原人まつり」は実施の方向に向けて進み始めました。

少ないスタッフではありましたが、アイディアと協力を求めて奔走する毎日に、西友大久保店の販売促進課長 金織氏が 総力を挙げてタイアップすると協力を申し出てくれました。

金造たちにとっては渡りに船。

なんとも心強く 嬉しい話でした。

それを機に風は一気に金造たちを応援するように吹き始め、構想は地域に広がって、郵便局、日本古生物学会会員の井上氏、日本の凧の会などが徐々に力を貸してくれるようになりました。

その年の4月22日は、原人腰骨発見地の西八木海岸をゴールにして、原人の史跡で説明をし、海岸で各自がお弁当を広げる「わが街再発見・ウォークラリー」を実施し、350人が参加しました。

中には 原人ルックに身を包んだコンビも参加し、目を引いたと言います。

こうして、「1年かけてじっくりと企画を練る!」と決めた原人まつりのプレイベントは成功し、原人まつりの全体像が見えてきました。