原人物語15

明石原人祭りをしようと思い浮かんだ平成元年の暮れ、金造はまちづくりを考える「明石まちづくり研究会」に誘われ 出席しました。

駅前の商店街で本屋を営む金造にとって、異業種交流しながら 原人祭りの意図である「まちづくり」の知識を学べることは ことのほかありがたいことだったようです。

第7回目の明石原人祭りが終わった頃、金造はある大きな決心をします。

「まちづくり」を考えて 明石原人祭りを続けてきているけれど、財政面を筆頭にさまざまな制約がかかる…工夫はするにしても、もう少し行政からの歩み寄りは期待できないものだろうか…ここは、自ら飛び込んで改革の道を探すほかない…

「明石市会議員への立候補」これには、周囲は驚きました。

原人祭りの活動を通してぶち当る行政制度の壁が 金造に立候補を決意させることになったのですが、「原人祭りを売名行為に利用した」との批判も浴びました。

この立候補を機に、金造は、政治とは無関係な民間のまつりという立場を貫く明石原人祭りを退き、実行委員長は三木則男氏に引き継がれました。

当時の私は、外国人や海外の製品、飲食を提供する店舗をまとめる国際交流バザールの部分を担当していただけで、明石原人祭り全体のことまではまだ分かってはいませんでしたが、この一連の「騒ぎ」を三木氏は逐一 私に連絡してきました。

そして、図らずも一部始終を知ることとなったある日、三木氏と山上氏がそろって私を訪れ、これからどうしようかという「会議」が始まりました。

3人だけのその「会議」で、結局のところ 三木実行委員長、山上副実行委員長、西海事務局長が決まってしまったのです。

またしても「不意打ち」のような人事でしたが、第8回明石原人祭りは目の前で、もうそのメンバーでやりぬくしか選択はありませんでした。